出口の文学鑑賞
プロローグ
2009年末に出版された『教科書では教えてくれない日本の名作』(ソフトバンククリエイティブ)は、出口汪先生と女子高生“あいか”による軽妙な掛け合いのもと、名作といわれる文学作品の本当の面白さと深みを教えてくれる対談集に仕上がっています。
実はその本には、本来掲載されるはずだった幻の原稿が存在します。それは、出口先生が大学・院生時代に七年間研究テーマにされていた森鴎外の名作『舞姫』です。その情熱ゆえ大作となり、ページ数の関係上泣く泣く割愛された、幻の対談を「出口の文学鑑賞」として特集いたします。
その前に……まずは、出口先生と森鴎外との出会いをご紹介します。
出口汪と森鴎外の出会い
私の大学での恩師は、実に厳格な指導で知られていた。今では、もう珍しいのかもしれないが、教授と学生の問には、昔風の師弟関係が存在した。
あるとき、先生は私に「卒業論文は誰にするか、もう決めたのか」と尋ねられた。
私は日本文学科の近代文学専攻だった。私はすかさず「川端康成にします」と答えた。
先生はしばらく考えた後、「川端は駄目だ。他のにしなさい。他のなら、誰にする?」とおっしゃった。
私は一瞬唖然とした。どうして卒業論文のテーマまで干渉されなければならないのだろう。でも、気を取り直して、次に研究したい作家の名を答えた。
「太宰治がいいです。太宰治にします」
先生はまたしばらく考え、「太宰も駄目だ。違うのにしなさい」と、ぶっきらぼうにおっしゃった。
私はやけくそになった。頭のなかで、懸命に次の作家の名前を探していた。そのとき、ふと芥川の顔が浮かんできた。
「先生、ならば、芥川をやらせてください。お願いします。芥川龍之介が駄目なら、他には特に研究したい作家が見当たりません」
私は、今度ばかりはすがりつくように言った。先生はやはり難しい顔をなさって、それからゆっくりと「芥川も駄目だ」とおっしゃった。
いくら先生でも、これではあまりにも横暴だと思った。そこで、「どうして駄目なんですか?」と聞いてみた。
先生は少し困った顔をされて、「出口君。今、君が挙げた三人の作家の共通点がわかるかね?」と、質問された。
「さあ……」
私は首を傾げるばかりであった。
先生は少し間をおいて、
「三人とも、自殺した作家だよ」とおっしゃった。
「あっ」と、私は思わず声を上げそうになった。
「君は一番自分に似た作家を挙げたんだ。自分に近い作家の研究なんて、誰にでもできる。でも、そんな作家ばかり研究していると、そのうちとりつかれて、君も自殺するよ」
私は返す言葉がなかった。あのころの私は典型的な文学青年で、自分の感性に溺れていて、独り善がりの世界にどっぷりと浸かっていた。
「では、どうしたらいいんですか?」
すっかり毒気を抜かれた私は、おとなしくそう聞いた。
「ところで、出口君、君の一番嫌いな作家は誰かね?」
私はなぜそんなことを質問されたのか、不審に思いつつも、素直に思い起こしてみた。すると、今度は森鷗外の顔が脳裏に浮かんできたのだ。
「先生、鷗外です。あの官僚的で、気取った感じが一番嫌いです」
私がそう答えたとき、先生は心なしかにやっと笑ったと思った。
「そうか、鷗外か。では、出口君、これからは、その嫌いな鷗外を研究することにしなさい」
先生は平然とそう断言された。私は罠にかかったのだ。気づいたときはすでに遅かった。私は大学の三年、四年と修士の二年間、そして博士の三年間と、この後七年間も一番嫌いな鷗外を研究する羽目になったのだ。
このことがはたして、私に対する最も有効な指導法だったかどうかは、今でもよくわからない。結局、私は研究することが嫌で嫌でたまらなく、また自分の自由が束縛されることに耐えられなかったため、博士課程修了をよい機会に、大学から飛び出してしまった。
でも、今ならわかることもある。そして、嫌いな作家を研究し続けた七年間が現在の私を作ったともいえる。
好きな作家はいつだって研究できるのだ。それに対して、嫌いな作家はほうっておいたらいつまで経っても研究しようとはしないだろう。特に、私のような性格では。
ましてや、それが鷗外だから困ると、先生は考えられたのだろう。
将来、研究者になる人間として、鷗外がわからないでは通用しないのである。
どうでもよい作家なら、先生も違った判断を下したかもしれない。
近代文学を研究するには鷗外をわからなければならない。好きな作家なら、止められたって、自分で勝手に研究するはずである。
大学を辞めてから、改めて鷗外を読んでみた。不思議なことに、あれほど嫌っていた鷗外がしみじみとわかるのだ。もちろん、本格的に研究しだしてから、かつての偏見はなくなり、鷗外のすごさは十分に理解していた。でも、しみじみと身にしみたのは、正直にいって、大学を去ってからかもしれない。
私が学んだことは、実に多かった。一見、官僚的で、冷たく、面白味のない人間だと思いこんでいた鷗外に、それとはまったく反対の一面があることを知ったのだ。
私は一人の文学者を、そして一人の人間を、一面的に、しかも表面的にしか見ていなかった自分を恥じた。
さらに、自分と正反対の、それだけでなく、はるかに大きい人物とぶつかることの意味を知った。
人間はそれによって成長するのである。自分と同じタイプの人間とばかりつきあったのでは、成長はしない。
私は鷗外によって、学ぶとはどういうことかを知った。
私は、鷗外なら鷗外しか視野になかったのである。しかし、物事はすべて何かとつながっていて、単独で存在することなどあり得ない。
鷗外がわかるということは、同時に漱石がわかるということだったのである。さらに、漱石がわかるということは、芥川がわかるということである。それは同時に、日本の近代が理解できるということでもあったのだ。そして、明治なるものがわかってこそ、初めて芥川の時代、大正が理解できるのである。
私が最も愛した作家の一人が太宰治だが、鷗外は一見、彼とは正反対のタイプの作家に思える。でも、太宰は「小説家は、聖書と鷗外全集があれば充分だ」というようなことをいっている。
鷗外がわからなかったら、太宰も真にわかることができなかったのではないか。
ものを知るというのは、眼前のものを知ることだけを意味しない。物事は縦横無尽に絡み合っているのだ。その絡み合いのなかに身を投じる試みこそ、ものを知るということである。
ロジカル・シンキングも、そのことと無関係ではない。
出口汪著『きのうと違う自分になりたい』(中経出版)より
はじめに
出口先生と森鴎外の意外な出会い。いかがでしたか?
それではこれより、出口先生と女子高生“あいか”の名作解説がスタートします。その前にここで、女子高生“あいか”のプロフィールをご紹介します。
あいか プロフィール
私の名はあいか。可憐な乙女です。一応高校生をやっているのだけど、勉強はあまり好きではありません。
好きなのは音楽と漫画、それにテレビのバラエティ番組とゲーム、特にゲームには嵌(はま)っています。後は、アイスクリーム。
夏目漱石や芥川龍之介は教科書で習いました。でも、難しくて分からない。第一、古めかしくて時代遅れ、なぜ今それを読まなければならないのか、ちっとも分かりません。
携帯小説の方がずっと今風で、感動します。
でも、出口先生が文学の面白さを教えてくれるって言うのだから、ちょっとくらい挑戦しようかなって。
私も世の中のことを知って、そろそろ大人にならなくちゃ、ね。
『教科書では教えてくれない日本の名作』(ソフトバンククリエイティブ)より
先 生
ということで、次のページからこのHPで文学講義を始めるよ。
はい先生、私にでも分かるように、ちゃんと教えてね。
あいか
先 生
任せておけ。あいかに分かるなら、HPをご覧になっている皆さんにも分かるから。
失礼しちゃう。
あいか