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出口の文学鑑賞 第一部

第一部 まずは作品世界をつかむ

森鴎外って、教科書に出てくる、あの少し禿げたおじさんでしょ?
「舞姫」って、何だか古くて、難しい文章で、国語の授業で習ったけど、ちっとも分からなかったわ。

あいか

あいか

先 生

先 生

あいかちゃん、「舞姫」を教科書で読んだとき、どんな感想を持った?

太田豊太郎がエリスを棄てる話でしょ?豊太郎って、なんかはっきりしなくて、教科書読んでてもいらいらしたわ。

第一、自分の出世のため、妊娠しているエリスを棄てて帰国するなんて、最低。だいっきらい。逆に相沢謙吉の方がクールでかっこよく思えたくらい。

あいか

あいか

先 生

先 生

へえ~、結構手厳しいんだ。相沢謙吉がかっこいい?

今の男の子、子どもっぽくて頼りないもの。相沢のような男らしい人がタイプ。

でも、実は、エリスもあまり好きじゃないの。だって、最後まで男にすがりついてみっともないもの。だから、いつまでも女は自立できないのよね。う~ん、もし、私がエリスだったら、さっさと別れて、後から慰謝料を請求するわ。

あいか

あいか

先 生

先 生

慰謝料?

(ぶっ)あいかちゃん、いさましいなあ。

でもね、文学は自分にひきつけて読んだら駄目なんだよ。結局、何を読んでも自分の今の感覚や価値観に照らして、好きか嫌いかで終わってしまう。それなら、せっかくの名作を読んでも、少しも自分の世界が広がってこない。もったいないよ。

先生、じゃあ、どう読めばいいの?

あいか

あいか

先 生

先 生

まず今の自分をいったん白紙にして、その作品世界を正確につかむこと。作品が発表されたのは明治二十三年、ものの価値観も状況も全く今とは異なるんだ。

大切なのは、しっかり読むこと。教科書で習っていても、実は読んでいるようで、ちゃんと読んでいないことが多いんだ。

じゃあ、しっかりと読んでみる。先生、読み方、教えて。

あいか

あいか

先 生

先 生

うん、一緒に読んでいこう。全部読み終えた後、あいかちゃんがどんな感想を抱くのか、楽しみだな。

 家や国家を背負って生きた明治人
 物語は太田豊太郎がドイツから帰国する船中から始まる。
 豊太郎は「腸(はらわた)日ごとに九廻(きゅうかい)すともいふべき惨痛(さんつう)」といった恨みを抱いて、今日本に帰ろうとしているんだ。
 なぜ、豊太郎がこれほどの恨みを抱いたのか、その理由を明かすべく、物語は時間を遡っていく。

 「腸(はらわた)日ごとに九廻(きゅうかい)すともいふべき惨痛(さんつう)」ってどんな痛み?

あいか

あいか

先 生

先 生

 一日に九回内臓が引きちぎれそうになるほどの痛み

 ええええっ!そんなの、死んじゃう。

あいか

あいか

先 生

先 生

 そして、肝心なのは、その痛みが「恨み」から生じたものだということ。豊太郎は、それほどの恨みを胸に隠したまま、今帰国の途につこうとしている。

 では、その恨みの正体が明かされるのね。何だかぞくぞくしてきた。禿のおじさん、やるじゃない。

あいか

あいか

先 生

先 生

 では、続きを読んでいこう。

余は幼き比(ころ)より厳しき庭の訓(おしえ)を受けし甲斐に、父をば早く喪(うしな)ひつれど、学問の荒(すさ)み衰ふることなく、旧藩の学館にありし日も、東京に出でゝ予備黌に通ひしときも、大学法学部に入りし後も、太田豊太郎といふ名はいつも一級の首(はじめ)にしるされたりしに、一人子の我を力になして世を渡る母の心は慰みけらし。十九の歳には学士の称を受けて、大学の立ちてよりその頃までにまたなき名誉なりと人にも言はれ、某(なにがし)省に出仕して、故郷なる母を都に呼び迎へ、楽しき年を送ること三とせばかり、官長の覚え殊(こと)なりしかば、洋行して一課の事務を取り調べよとの命を受け、我名を成さむも、我家を興さむも、今ぞとおもふ心の勇み立ちて、五十を喩(こ)えし母に別るゝをもさまで悲しとは思はず、遙々(はるばる)と家を離れてベルリンの都に来ぬ。

 わああー、先生、難しいよ。でも、なんだか豊太郎って、いや。いつも一番だって、いばってるもん。

あいか

あいか

先 生

先 生

 確かにそうだ。彼はいつでも一番で、今回の留学も「我名を成さむも、我家を興さむも、今ぞとおもふ心の勇み立ちて」とあるように、今こそ自分の出世、そして家を興すチャンスだと、血気にはやっている。
才能のある若者が、精一杯誇らしげに胸を張って、輝かしい未来を切り開こうとしている、そんな意気込みが感じられるよね。
でも、成功したい、お金持ちになりたいといった今の若者とは、鴎外も太田豊太郎も決定的に違うんだ。彼等は単に自分の欲望を満たすためではなく、家や国家を背負って生きている。

 家や国家?

あいか

あいか

先 生

先 生

 「舞姫」が発表されたのは明治二十三年。だから、この時代のことを頭に置いて読まなければならないんだよ。当時はすべてを西洋から学ばなければならなかった。一刻も早く西洋に追いつかなければ、植民地化される危険にさらされていたんだ。

 ああ、学校で習ったことがある。

あいか

あいか

先 生

先 生

 鴎外も豊太郎も新帰朝者といって、家や国家を背負って留学した、超エリートだったんだ。当時の日本はまだ封建的で、仕事や恋愛の自由なんかほとんど認められていなかった。少なくとも、新帰朝者は官費で留学したのだから、自分の欲望よりも国家のためが優先される。

 ねえ、先生、一つ聞いてもいいかしら。このお話、本当のことなの?だって、森鴎外と太田豊太郎と、生い立ちやキャラがすごく似ているんだもの。

あいか

あいか

先 生

先 生

 いいところに気づいたね。確かに、そっくりだ。いや、鴎外はわざと自分そっくりの人物を主人公にしたとしか考えられない。
 後で詳しく説明するけど、そこに「舞姫」のもつとも大きな謎があるように僕には思えるんだ。

 ふ~ん、で、豊太郎は今成功して、日本へ帰国の途上にあるのでしょ。それなのに、どうしてそんな恨みを抱いているの?
 それって、おかしいよ。だって、長い留学生活の果てに、晴れてようやく故郷に帰ることができるのに、ちっともうきうきしていないんだもの。

あいか

あいか

先 生

先 生

 あいかちゃん、焦らない。その謎はやがて明らかになるから。
 物語は冒頭船中での恨みの告白から、一転、ドイツ留学時代の過去へと遡っていく。

余は模糊たる功名の念と、検束に慣れたる勉強力とを持ちて、忽ちこの欧羅巴(ヨーロッパ)の新大都の中央に立てり。

 そうそう、こうこなくっちゃ。だって、国家を背負った若者が、目を輝かせて異国の地に立ったんだもの。

あいか

あいか

先 生

先 生

 太田豊太郎にとって、見るもの聞くものすべてが新鮮で、生き生きとベルリンで活躍し始める。まさに鴎外の留学時代を想起させる記述が続いていく。
 ところが、三年経つと豊太郎の思いは次第に変わっていく。

かくて三年(みとせ)ばかりは夢の如くにたちしが、時来れば包みても包みがたきは人の好尚(こうしょう)なるらむ、余は父の遺言を守り、母の教に従ひ、人の神童なりなど褒(ほ)むるが嬉しさに怠らず学びし時より、官長の善き働き手を得たりと奨(はげ)ますが喜ばしさにたゆみなく勤めし時まで、たゞ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当りたればにや、心の中なにとなく妥(おだやか)ならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表にあらはれて、きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり。余は我身の今の世に雄飛すべき政治家になるにも宜(よろ)しからず、また善く法典を諳(そらん)じて獄を断ずる法律家になるにもふさはしからざるを悟りたりと思ひぬ。

 う~ん、少し文章が難しいけど、なんとなく分かる気がする。「所動的、器械的の人物」って、人の言われるままの人間ってことでしょ?

あいか

あいか

先 生

先 生

 そうだよ。ここに鴎外のその頃の悩みが投影されている気がするな。
ただし、君たちとは時代が違うと言うことはしっかりと頭に置いておかなければならないよ。ベルリンで、豊太郎は「自由なる大学の風」に当たった。そのことの意味は、今とは全然異なっているはずなんだ。
豊太郎は家のため、国家のため、法律家たらんと懸命に頑張ってきた。これが「我ならぬ我」で、日本の風土の中で今までそれを疑問に感じたことがなかったのだ。
ところが、市民革命以後のベルリンは「自由なる風」が吹き荒れていた。誰もが好きな仕事に就き、好きな人と恋愛をし、自分のために生きようとしていた。

 ああ、わかるわ。江戸時代の武士が、タイムマシンに乗って、いきなり現代に来たみたいなカルチャーショックね。

あいか

あいか

余は私(ひそか)に思ふやう、我母は余を活(い)きたる辞書となさんとし、我官長は余を活きたる法律となさんとやしけん。辞書たらむは猶ほ堪ふべけれど、法律たらんは忍ぶべからず。

先 生

先 生

 この瞬間、豊太郎は封建人から近代人へと、大きく変貌を遂げようとしている。
封建人は、武士ならば武士、百姓ならば百姓と、生まれながら、身分も職業も決められている。そして、それに対して何の疑問も抱くことはなかった。まさに豊太郎が初めてベルリンの地に足を踏み入れたときがそうだっただろう?
ところが、今の豊太郎は真の自己と懸命に向き合おうとしている。

 学校で習った、自我の確立って、このことでしょ?
今までなんかぴんと来なかったけど、今なら分かる気がする。

あいか

あいか

先 生

先 生

 豊太郎はまさに日本で最初に自我が芽生えたが故の苦悩を背負った人間だとも言えるんだ。

嗚呼、此故よしは、我身だに知らざりしを、怎(いか)でか人に知らるべき。わが心はかの合歓(ねむ)といふ木の葉に似て、物触(さや)れば縮みて避けんとす。我心は処女に似たり。

先 生

先 生

 ここで着目して欲しいのは、豊太郎自身が自分のことを「弱くふびんなる心」と告白していることだ。のちのちの物語の展開の伏線になってくる。

 「わが心はかの合歓といふ木の葉に似て、物触れば縮みて避けんとす。我心は処女に似たり」なんて、なんか素敵。思わず守ってあげたくなるわ。

あいか

あいか

薄幸の美少女エリスとの出会い

先 生

先 生

 さて、いよいよ物語が展開し始める。
ヒロイン、エリスの登場。

或る日の夕暮なりしが、余は獣苑を漫歩して、ウンテル、デン、リンデンを過ぎ、
我がモンビシユウ街の僑居(きょうきょ)に帰らんと、クロステル巷の古寺の前に来ぬ。

先 生

先 生

 豊太郎が自分の住居に帰ろうとするんだが、夕暮れ時ぶらぶらと寄り道をしていることが、この文章から分かるだろ?

 そうか。今までの豊太郎だったら、必死で勉強するため、寄り道なんかせずに、用事を済ませれば、一直線に帰ってくるもんね。

あいか

あいか

今この処を過ぎんとするとき、鎖したる寺門の一扉に椅りて、声を呑みつゝ泣くひとりの少女(おとめ)あるを見たり。年は十六七なるべし。被(かむ)りし巾(きれ)を洩れたる髪の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。我足音に驚かされてかへりみたる面(おもて)、余に詩人の筆なければこれを写すべくもあらず。この青く清らにて物問ひたげに愁(うれい)を含める目(まみ)の、半ば露を宿せる長き睫毛(まつげ)に掩(おお)はれたるは、何故に一顧したるのみにて、用心深き我心の底までは徹したるか。

先 生

先 生

 夕暮れ時、古寺の門に寄りかかって、美しい少女が一人で声を殺して泣いていた。それが豊太郎とエリスとの出会いだった。

 先生、金髪よ。金髪。

あいか

あいか

先 生

先 生

 エリスは泣きじゃくりながら、豊太郎に訴えたんだ。

「我を救ひ玉へ、君。わが恥なき人とならんを。母はわが彼の言葉に従はねばとて、我を打ちき。父は死にたり。明日は葬らではかなはぬに、家に一銭の貯(たくわえ)だになし。」

 先生、これどういうこと?何が起こっているのか、よく分からない。

あいか

あいか

先 生

先 生

 この文章だけだと推測するしかないけど、父が死んだのに、お葬式を執り行うお金もないんだ。母は彼の言葉に従えと、彼女に暴力をふるう。「我を救ひ玉へ、君。わが恥なき人とならんを」とあるので、彼に肉体を提供することで、援助して貰うしかないということだろうな。そこで、エリスはどうしていいか分からず、泣いていた。

 かわいそう。それにしても、「彼」って、何者なの?ひどい男

あいか

あいか

先 生

先 生

 金髪の少女の名はエリス、ビクトリア座の踊り子で、「彼」はその座長。エリスが 貧しいことに付け込んで、彼女を自分のものにしようと、強引に迫っていたんだ。
豊太郎はエリスを気の毒に思い、助けてやった。そこから二人の恋愛は始まる。

鳴呼、委(くわし)くこゝに写さんも要なけれど、余が彼を愛(め)づる心の俄(にわか)に強くなりて、遂に離れ難き中となりしは此折なりき。我一身の大事は前に横(よこたわ)りて、洵(まこと)に危急存亡の秋(とき)なるに、この行(おこない)ありしをあやしみ、又た誹(そし)る人もあるべけれど、余がエリスを愛する情は、始めて相見し時よりあさくはあらぬに、いま我数奇を憐み、又別離を悲みて伏し沈みたる面に、鬢(びん)の毛の解けてかゝりたる、その美しき、いぢらしき姿は、余が悲痛感慨の刺激によりて常ならずなりたる脳髄を射て、慌惚の間にこゝに及びしを奈何(いか)にせむ。

 あ~あ、やっちゃた。恋は盲目って奴ね。

あいか

あいか

先 生

先 生

 ここで注意して欲しいのは、「この行ありしをあやしみ、又た誹る人もあるべけれど」とあることなんだ。官費で留学したのに、踊り子風情に夢中になってけしからんと、上官に告げ口する人がいて、ついに豊太郎は国からの費用が支給されなくなる。
ベルリンにたった一人、お金もないまま置き去りにされてしまうことになる。

 で、結局、豊太郎はどうしたの?

あいか

あいか

先 生

先 生

 それを助けたのはエリスだった。そして、親友の相沢謙吉。

公使に約せし日も近づき、我命(めい)はせまりぬ。このまゝにて郷にかへらば、学成らずして汚名を負ひたる身の浮ぶ瀬あらじ。さればとて留まらんには、学資を得べき手だてなし。 此時余を助けしは今我同行の一人なる相沢謙吉なり。彼は東京に在りて、既に天方伯の秘書官たりしが、余が免官の官報に出でしを見て、某新聞紙の編輯長に説きて、余を社の通信員となし、伯林(ベルリン)に留まりて政治学芸の事などを報道せしむることとなしつ。

先 生

先 生

 相沢謙吉は大臣である天方伯の秘書で、豊太郎に新聞社の通信員の仕事を紹介してくれたんだ。薄給だけど、これでとにかく生活ができるようになる。

兎角(とこう)思案する程に、心の誠を顕(あら)はして、助の綱をわれに投げ掛けしはエリスなりき。かれはいかに母を説き動かしけん、余は彼等親子の家に寄寓することゝなり、エリスと余とはいつよりとはなしに、有るか無きかの収入を合せて、憂きがなかにも楽しき月日を送りぬ。

先 生

先 生

 そうやって、エリスと一緒に暮らすようになる。
二人の収入を合わせて、貧しいながらも楽しい生活が始まった。

 同棲時代ね。
なんか、こんな生活も楽しそう。私って、意外と古風な女なのかも。

あいか

あいか