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和田秀樹「論理こそ要領」

はじめに

出口汪と著名人の対談・真剣勝負、第七弾は評論家で精神科医の和田秀樹氏との対話です。
「論理こそ要領」をテーマに、三部構成で公開していきます。

この対談は2011年11月1日に行われたものです。

第一部 国語はセンス?

国語に対する誤解の根源

images私は元々理系で、その上、心情読解問題が苦手ということもあり、正直、昔は国語を重視していませんでした。『受験は要領』という本の中で、「国語は少女漫画でも読んでいたらいい」というように極めてさらりと流したほどですから(笑)。

しかし、最近の若者たちと接していくうちに、彼らが「国語」という科目ができないどころか、「歴史の教科書も読めない」という実態がわかってきたのです。東京書籍で物理の教科書の編集委員に選ばれた際も、現場の先生から「生徒が物理の教科書を読めない」と伺いました。

そういうこともあって、ここ10年ぐらいの間でしょうか、論理的なものの読み方・考え方の重要性に急速に関心を持つようになってきたのです。

和田

和田

出口

出口

そういえばこの前、苫米地英人博士と対談した際も、「自分が高校の時に教えられたのは、現代文ではなくて現代文学でした」と、同じようなエピソードを伺いました。

昔はそういう時代でしたね。僕がこの仕事を始めた頃は、「国語という科目は、やってもやらなくても成績は変わらない」と、頭の良い子ほど思っていたのです。当時は方法論がありませんでしたから、事実その通りだったと思うんですよ。

かつてはね。

和田

和田

出口

出口

imagesええ。文学と混同されてしまったり、あるいは、英語・数学は、意識して学ばなければ絶対に解けるようになりませんが、国語は「日本語だから普通に文章が読めて話せる以上、特に意識して学ぶ必要はない」という風潮が常識でしたからね。

ですので、僕が最初に「現代文は論理だ」と言った時は、多くの国語講師からバッシングを受けました。

そうなのですか。

和田

和田

出口

出口

imagesはい、すごかったですよ。詐欺師呼ばわりされたり、「論理であるならば、その場で全部解いてみろ。満点が取れるだろう」という風に詰問されました。

考えてみれば当然ですよね。今まで国語とは、教養であるとか、センス・感覚だと教えていた先生方にとってみれば、「国語は論理だ」ということになれば、自分たちが今まで教えてきたことが全否定されることにつながるわけですから。だから、驚くほど反発がありましたね。

imagesでしょうね。「数学は暗記」と言った私も、ものすごく反発を買いました(笑)。 私たちの時代でも、「英語ができるのに、国語ができないのはおかしい」等という声もありましたが、英語は少なくとも英文学ではありませんよね。

例えば、英語の問題で心情把握をさせられることはまずありません。英文解釈にしても、「ここで使われている関係代名詞がどこにかかっているか」、というようなことを解釈と呼んでいたわけです。ところが、国語の場合は本当に“解釈”だったものですから、当時の私たちは困惑しましたね。

もう一つ、国語コンプレックスの理由としては、実は林真理子先生をはじめ、たくさん小説家の友達もいるので、バレるとまずい話なのですが(笑)、あまり小説を読むのが好きではなかったのです。

そうはいっても、新聞は小5ぐらいからきちんと読んでいましたし、小2や小3のときは、百科事典を読むのが好きな変わった子でした。ところが、いざ国語になるとできませんでしたね。

そのようなことがあったものですから、国語に対して誤解を持つ方の気持ちも分かるのです。例えば、子供が中学受験で国語が苦手ならば、「ああ、私と似てできないんだわ。こんな科目は勉強してもできるようになる訳がない」と思ってしまう親御さんは、今の時代でも、とても多いのではないかと感じています。

そういう意味で、出口先生には、学校の先生だけではなく、親御さんの持つ国語への誤解も払拭していただきたいと思いますね。

和田

和田

出口

出口

ありがとうございます。

いまの大学生の論理力

出口

出口

和田先生もご存じのように、現在の日本の学生は、このままいったらどうなるかと思えるぐらい、本当に学力が落ちてしまっています。僕らより上のいわゆる全共闘世代は、国語をやらなくても、マルクスとか吉本隆明といった非常に難解な文章を読み、なおかつ、難しい言葉を振り回して議論をしていました。そこである程度、論理的な思考力というものが鍛えられていたと思うのです。

今の若者はそういう難しい文章は読まないし、議論もしない。文学を好まず携帯小説を読み、そしてゲームやネット三昧です。もちろん、それらが悪いのではありません。「論理的な訓練をする場が全く無くなってしまっていること」この状況そのものが、現代社会が抱えている大きな病理、危機的状況ではないかと思うのです。

imagesおっしゃるとおりですね。例えば、大学生が新聞を読まなくなったと言われ、しばしば「ネットで新聞を読んでいるからだ」と片づけられていますが、それは認識として甘すぎると私は考えています。

日本と世界の大学生の違いを申し上げますと、日本の大学生は基本的にメールやネットにおいて、携帯電話を使いがちです。 一方、民度のかなり遅れた国とか、1人当たりのGDPが相当低い国であれ、基本的に大学生と名のつく人たちならば――アフリカの貧しい国なら、ひょっとしたら人口の1%も大学に行ってないかもしれないけど――少なくとも大学に行っている人間はパソコンを使うわけです。アメリカにおいてもパソコンが主流です。 携帯をメインに使うのは日本の大学生だけなんですね。例えば、私も今、アルバイトで東大生をたくさん雇っていますが、東大生でさえ「アドレスを書いてください」と言うと、携帯のメールアドレスを書いてくれるわけです。そういう意味でも、長い文章をまともに読むことにあまり慣れていないんですね。

和田

和田

思考する際に必要なこと

中学受験で面白いと思うことがあります。国語は当然、全国で入試科目として扱われています。一方、社会科は原則、東日本のみ入試科目として存在するのです。このことが結構、国語の学力に差をつけるんですね。しかし、西日本はない。私が灘中を受けた時も国・算・理だけで、社会はありませんでした。

和田

和田

出口

出口

そうですね。

images正直、単純暗記が苦手なものですから、「社会科がなくてラッキー」だと思って受験したのですが(笑)。

ところが、入試に社会科があるのとないのでは、実は大変な違いを生じることに最近気がつきました。中国地方の進学実績の高い中学に講演に行った際、国際社会や地域社会の話とからめ、「勉強しないとこのままだと、貧乏になるよ」という講演をしたとき、あまりピンと来ていないように感じました。

中学校の先生も「いや、うちの学校の子供たちにはちょっとまだ難しいかもしれません」とおっしゃるので「あれ、新聞くらい読んでいませんか?」と聞いたら、「読んでないんですよ」とおっしゃいました。しかし、東京の中学受験生であれば、社会科が受験に出るから、みんな新聞をある程度は読むんですよ。

このように新聞を読む習慣は、中学入試の視点で言うと、国語のためではなく、社会科のためなのですが、その習慣があるかないかだけでも、これほどまでに理解力が違うのかと驚きましたね。

和田

和田

出口

出口

やはり、何もないところでモノを考えることはできません。まとまった文章を読んで、それを理解したときに初めて、我々はそれについて考えることができるのですよね。

おっしゃるとおりですね。

和田

和田

出口

出口

現代の学生は、まとまった文章を読むこともなければ、先生がおっしゃったように、ほとんど携帯メールで済ませてしまいます。ですから、絵文字で自分の気持ちを伝える、その程度のコミュニケーションに陥りがちですよね。

imagesそうですね。私達の頃であれば背伸びをして、高校生の分際でヘーゲルを読んでいたり、西田幾多郎で考えてみたり……そんな感じの雰囲気でしたよね。

そこまで見栄を張ることもないと思うのですが、例えば『高校生のための経済学入門』(小塩隆士著・ちくま新書)という本について、「非常に出来が良いから大人も読んだほうがいいよ」と、私はよく人に勧めているのですが、それさえ普通の高校生にはなかなか読めないのです。

和田

和田

出口

出口

読めないから、面白くなくなり、さらに読まなくなるという悪循環ですね。

テレビは”振り込め詐欺”?!

また、私が非常に危険だと思うのは、テレビに出たとき、たった1分のコメントでさえ、必ず「長い」と言われることです。

和田

和田

出口

出口

そうですね。

1分のコメントでも「長い」のであれば、論理的に話すために例示するにしても、1つしか挙げられません。しかし、例示が1つか3つかでは、話の広がりがまったく違いますよね。「その可能性もあるけど、この可能性もあります。さらに、こちらの可能性もありますよ」という話ができないから、1対1の二元論的な、非常に即時的な物の見方を強いられるわけですよ。

和田

和田

出口

出口

imagesそうですね。テレビの論調も非常に危機的な状況だと思います。その理由の1つが、やはり、きちんとした論理的訓練を日本人が受けていないことにあるのでしょう。

おっしゃられていたテレビのケースでたとえてみましょう。

まず論者が主張したいことがある。しかし、これはあくまでも自分の考え・意見であって、どんな正しい意見であっても、主観にすぎません。

そして、主張を補強するために論者は具体例を使います。しかし、その具体例は客観的な事実でないと困るわけです。

当然、主観と客観とをきちんと区別して議論をしないと、議論にさえなりません。

おっしゃるとおりですね。

和田

和田

出口

出口

しかし、テレビでは、自分の意見と客観をごちゃまぜにしがちです。自分の個人的な意見にすぎないのに、たった1つの具体例をして、さも真実のような説明の仕方をしていたりします。受ける側もそれに対して無防備で、主観か客観かの検証をすることもなく、そのまま丸ごと信じ込んでしまう。その結果、その情報を例えば「むかつく」とか「微妙」とか、本当にワンフレーズで処理してしまう。

そういう意味では、テレビの悪影響は強いと思うんですよ。

imagesテレビというのは、言っては悪いのですが、それこそ「振り込め詐欺」かのごとく思える時さえありますね。

ひどい言い方に聞こえるかもしれませんが、振り込め詐欺が成立する理由は、相手に考えさせる時間を与えずに、「その日のうちに振り込みなさい」と脅すところにありますよね。家族や第三者に相談をしたり、確認の電話をかける時間を与えたら、その詐欺は成立しなくなるわけですよ。

ところが、今、テレビ的に求められている頭の良さというのは、すごくそれに似たところがあるのです。例えば国会質問でもそうなのですが、「そのことについては資料がない」とか、「統計のデータを調べてからお返事をします」と言ったら、袋だたきに遭ってしまうわけでしょう。

議論の際、自分の主張の根拠やデータが曖昧だと感じたら、今のご時世であれば、ネットで調べたらすぐ確認できるわけです。ところが、テレビの世界ではそれをする人間の方が愚かであるように思われてしまいます。相手の感情的リアクションを上手に誘導し納得させてしまう、とっさの切り返しができる人ほど賢いと思われてしまう。

和田

和田

出口

出口

そうですね。

imagesこれは論理の世界とは全く違うことなのです。 テレビ的に賢い人たちは、相手にある種の感情的な反応を起こさせるのが大変上手で、「俺もそう思う」「わしもそう思う」と言わしめてしまいます。

だけど、「わしもそう思う」は、論理的に納得したのではなく、感情的に納得しているだけ、というパターンが圧倒的に多いと思うのです。

ところが、感情的に納得させるだけの人がすごく賢い人のように思われ、あげくの果てに政治家になってしまう。あるいは、この人に応援された人が当選してしまうという……。

これはもう、テレビによって、国民全体が振り込め詐欺にひっかかって投票行動に出てしまう、あるいは今で言えば風評被害を作ってしまう、といった状況が引き起こされているとも言えるのではないでしょうか。論理力のトレーニングを受けてないがゆえに。

和田

和田

見過ごされてきた学問の本質

出口

出口

imagesおっしゃるとおりですね。同様の危機意識を僕も抱いています。

そういう日本にしてしまった最大の戦犯はと言えば、やはり教育だと思います。そしてもちろん、英語も数学にもいろいろ問題点はあるのでしょうが、一番その中で罪が重いのが国語教育だったのではないかと思うのです。

やはり知的な活動をするためには論理力が絶対に必要です。和田先生は先ほど「単純暗記が苦手だ」とおっしゃいましたが、それは脳の機能からいうと至極当然だと思います。

論理的に、体系的に意味付けして整理・理解するからこそ長期記憶が可能になるわけであり、そして、論理的に理解しているからこそ、その記憶を使いこなせるようになるわけですから。

おっしゃるとおりですね。

和田

和田

出口

出口

imagesそしてさらに、その記憶事項を使っていくうちに反復して習熟する、というのが、知的活動のサイクルだと思うのです。そうやって我々は物を考えたり、文章を読んだり、問題を解いていく。しかし、教育界では記憶から論理が切り離されてしまって、ひたすら単純記憶することを強いられてしまっている。

僕は珍しく、ゆとり教育そのものに対しては、賛成の立場なのです。ただ、文部科学省のやらせ方に間違いがあったと思うんですよ。彼らは情報を減らすこと、イコール「ゆとり」だと考えた。ということは、「教育」イコール「分断された知識・情報」としてしか文科省が捉えていなかったという証しです。

ですから、「学力低下だ」と、世論からかまびすしく言われたら、「では、覚える情報量を増やせば良い」と方針転換したのです。そして、そのたびに現場は混乱してしまった。残念ながら、学問や勉強の根本がわからない人たちが、制度をいじり回しただけに終わった気がしましたね。

第二部 「話せばわかる」ためのルール

発達段階に応じた教育

images私自身は、人間には発達段階があると考えています。例えば、論理的教育が本当に9歳の児童のためになるか、ということに関しては、検証の余地があると思うのです。少なくともある時期までは、論理よりも単純暗記に適していると考えていますので。

しかし、その9歳の壁を子供が越えると、論理的思考――例えば、原因と結果の関係性だとか、あるいは根拠を求めること――ができるようになってきます。そういった年代の子供たちに対して、論理的トレーニングが十分なされていないことについては、私も危機意識を持っています。

和田

和田

出口

出口

先生が今おっしゃった通りですね。よく誤解されるのですが、僕は、単純暗記や徹底反復について、全く反対していないんですよ。

問題は、人間の発達段階の全体像を俯瞰して、何をその年代に与えたら良いのかを考えることを放棄していることにあります。極端な言い方をすれば、「勉強とは暗記することだ」と思い込んでいる指導者もいる。

おっしゃるとおりですね。

和田

和田

出口

出口

images発達段階の最初の基礎学力とは、僕は言語だと思うのです。言葉を使って物を考える以上、知的活動は言語抜きにはできません。そして、言語の習得に従って知的世界は広がっていきます。ですから、言語の習得をまず徹底すべきだと思うのです。

算数の計算も、数学の世界でいう“言語”だと考えています。計算もできない人が、数学で物を考えることはできないわけですから。

その基礎部分を否定して「さあ、物を考えよう」というのはナンセンスですよね。

imagesそうですね。私は子供を成城学園にやっていましたが、成城って、小学1年生のときに算数を学ばないのです。国語――物語の読み聞かせみたいな時間を、週に8時間ぐらいやるのです。

成城は澤柳政太郎が作った非常に実験的な教育で有名な学校です。小学校からだんだん伸びて、旧制高校にまでなった学校で、旧制高校の附属で小学校を作った学校じゃないんですよ。

子供を中学受験させたのは、成城の教育が嫌いだったからではなく、成城で得た、本を読んだり、物事を考える教育にプラスアルファして、一般の中学受験教育をさせた方が、多分、子供の発達のために良いであろうと考えたからです。

和田

和田

和田秀樹の教育観

images私自身の教育観を申し上げますと、まずは、出口先生がおっしゃるように、日本語でまともに考えられる能力、少なくともまともな情報を収集する能力を得ることが最も重要だと思っています。

その次に、僕は教育とは欲張りであればあるほど良いという考え方を持っているのです。 例えば、ハワード・ガードナーという人は「多重知能」という考え方をしています。わかりやすく申し上げると、人間には8つの知能があり、言語能力や数学能力だけではく、音感的知能なども含めてすべて知能である、と定義しているのです。

images日本人は、「勉強ばかりしていると、性格が悪くなる」であるとか、「勉強ができるやつはスポーツができない」などと、それらがトレードオフの関係であるかのような錯覚を持ちがちです。しかし、昔から言われる「文武両道」のように、勉強もさせるし、スポーツもさせる。それに越したことはないわけです。

ガードナーも、8つの知能が全部発達するに越したことはない。ただ、それが無理だったら、その中で幾つか取り柄を伸ばせばいいのだ」と言っています。

また、IQに対してEQ(心の知能指数)という概念がありますよね。IQが高く、ハーバードのビジネススクールを出ても、社会に出て成功できない人がいることから、「その人たちに欠けている能力は何だろう」という研究をした、その成果がEQなんですよ。

彼らの考え方としては、ハーバードのビジネススクールに行っているような人間に、EQの教育を足してやれば、鬼に金棒だろう、という考え方なんですね。

和田

和田

出口

出口

EQは教育で習得できるものなのでしょうか。

EQ概念の主導者の人たちは、それをビジネスにしたいから、という理由もあるでしょうが、可能だと主張していらっしゃるようです。

いずれにせよ、他人の気持ちを読み、ある種の共感能力を持つことであるとか、自分の感情を知り、モチベーションをつける方法を習得することについて、全く無自覚でいるよりは、自覚した方が良いでしょうね。

和田

和田

出口汪の教育観

出口

出口

images昔は一握りの人間が物事を決定した時代ですから、その一握りのエリートはすごく勉強したと思うのです。しかし、現代は昔と違い民主主義の時代です。すべての人間が、この複雑な現代社会から正しく情報を得て、正しく理解をし、そして正しい判断をしなければならない義務があるのです。そして、その義務を全うできるようになるためには、教育のあり方そのものを考えなければダメだと考えています。

自分のことを申し上げて恐縮ですが、若き日の僕は予備校講師として、肉体を使って自分の信じる教育を目の前の生徒にやっているだけで良かった。しかし、肉体には限度があります。有名になるにつれて、テレビあるいはラジオを使って、より多くの人に自分の信じる指導法を伝えるようになっていきました。

そして、このように多くの生徒と触れ合う中で、間違った国語教育を、皆がずっとやり続けている状況に対し、僕なりに強い危機感を持つようになっていきました。

僕だけではなく、一人でも多くの先生たちが、目の前の生徒に対してきちんとした教え方をできないと、日本の教育は変わらないと。

文科省もいろいろ考えてやっているだろうけれど、現在の国語教育で、本当に論理力のある子供たちを輩出しているかといったら、そうではない

それはそうですね。

和田

和田

出口

出口

images結局、システムそのものを変えていかないと、いくら勉強時間を増やしても根本的な解決にならない、という危機感が芽生えてきたのです。

そういった視点から、僕の限られた肉体で目の前の生徒に話をするだけよりも、システム教材を作って、なるべく多くの先生方に、きちんとした論理的な考え方を子供たちに伝えてほしいという考え方に変わっていきました。それが『論理エンジン』なのです。

今回、「論理文章能力検定」という検定試験を始めるのも、人間は、入試や中間・期末の試験があるからこそ、勉強すると思ったからです。間違いなく、試験がないのと、試験があるのとでは、勉強の仕方が全然違いますから。

それは正しいと思います。私は心情読解問題が苦手で、最後までできるようになりませんでしたけど、やっぱり試験があるから勉強したのです。そして、心情読解力より論理力の方が、はるかに社会に出てから実際に役に立ちますからね。たとえ「論理文章能力検定」対策としての勉強であったとしても、子供にとっては、将来に役立つ非常に大切な勉強の機会だと思いますよ。

和田

和田

”国語”に対する大きな誤解

images国語の先生が一番勘違いしているのは、「日本人は日本語が読めるのが当たり前だ」と思っていることにあるのではないでしょうか。日本語は、漢字を除けば、話し言葉と書き言葉がとても似ているので、割とそこが盲点となってしまうので……。

外国の場合、しゃべれるけれど、読み書きができない人が、例えばアメリカみたいな国でさえ10%か15%いますから、読み書きに関して、極めて教育の中で重視されてきていますよね。

だから、アメリカ人が言うEnglishというのは、ほぼグラマーであったり、あるいは要約ができるようになるとか、普通の文章を普通に読めるようになるところまで持っていくことを目指した指導であって、シェークスピアの講義を高校までの授業でやることはないわけですよ。

一方、日本の場合は「読めて当たり前」だから、いきなり国文学から入ることをずっとやっています。

和田

和田

出口

出口

そうですね。

しかし、いまは本当に小学生レベルぐらいまで戻って、「ここの部分の主語は何か」とか、「この『これ』という指示語何を指すのかということまで含めて、きちんと教えていかなければいけないぐらい、国語力が低下している。

英語だと、「いや、僕はすごく英語読むの、遅いんですよ」「速いんですよ」という差は割と素直に認めるのに、日本語はみんな当たり前に読めるみたいに思っている。しかし、本当は全然違うし、速読みが得意と言う人の中でも、内容が全く頭に入っていない人も沢山いると思うんです。

和田

和田

論理教育に適した学齢とは

論理的思考力は、ある一定の年齢を過ぎると誰でもマスターできますよね。そこでお伺いしたいのですが、出口先生は、論理的思考力を身につけるのは高学年になってからでも良いとお考えなのか、それとも「早ければ早いほど良い」という種類のものだとお考えなのか、お聞かせ願えないでしょうか。

和田

和田

出口

出口

images一概に言えないと考えています。つまり、「小学校○年生の時にこれを学ぶ」という考え方そのものに無理があると思うのです。なぜなら、小学校4、5年生くらいまでは、言語の習得の個人差がすごく大きいですから。

小学5年生であっても、物を考えるための言語を習得できていない子どもであれば、論理を教えても理解できないんですよ。

なるほど。

和田

和田

出口

出口

一方、小学校3年であっても、もう言葉で物を考えることができる早熟な子供も、結構いるんですね。

おっしゃるとおりですね。

和田

和田

出口

出口

そういう子には、どんどん論理的思考力に関する教材を与えてあげる方が、グッと伸びます。ところが、そういう早熟な子ほど、塾に行って逆に詰め込み教育をやらされてしまう。彼らは当然頭が良くて、人の話が理解できるから、憶えて成績が上がります。そこに落とし穴があるのです。

彼らは、本来物を考える力を持っていたのに、幼少時の成功体験のおかげで、逆に何でも詰め込み型の知識で処理していくような人間になりがちなんですよ。

すると大抵、大学受験のときに大きな壁が立ちはだかるようになりますね。

心情問題のワナ

出口

出口

imagesそれともう一つ。先ほど心情問題のお話がありましたけれども、実は先生のような頭の良い人ほど、自分の感覚で考えますよね。それで答えたら、大抵ペケになるんです。つまり、本当にできる子ほど、心情問題では点数が取れないという事態が現実に起こりやすいのです。

その理由は、やはり僕らの時代の国語教育が、正しい考え方を情報として与えてこなかったことにあります。つまり、日本語で書かれた小説である以上、読めばわかるだろうという教え方がなされてきた。しかし、入試の小説問題とは、断言しますが読んでもわからない問題なのです。

なぜなら、我々は小説を読むときに、1ページ目から読みますよね。

はい。

和田

和田

出口

出口

images途中から読む人はいませんよね。小説とは、1ページ目から読んではじめて、段階を踏んでいろいろな情報を得ていくものです。徐々にその小説の舞台となっている時代や状況、あるいは、その主人公の性格や人間関係などが、だんだん頭の中に入ってくる。

だから小説は、最初の30ページを読みこなすのが退屈なんですよ。また、だからこそ、次の場面が正確に理解できるのです。

ところが、入試問題は、長い小説の一場面だけを切り取っているわけです。そして、その場面とは、受験生にとっては、時代も状況も価値観も感受性も違う世界です。さらに、主人公がどんな人物かさえわからない

そこで自己流に読もうとすれば、当然自分の感受性が反映された読み方になってしまってペケをもらってしまう。

実は心情問題とは、その人の心情読解力を試しているのではありません。この切り取られた部分的文章をいかに客観的に正確に分析できるかという、情報処理能力、つまり論理力が問われているのです。

なるほど、そうなのでしょうね。

和田

和田

出口

出口

それなのに心情問題を論理と切り離して、正反対のものとほとんどの方は思われている。だから解けないのです。

実際は、心情問題は、誰が見ても文中に答えの根拠がはっきりわかるような作りになっています。ですから、ルールをきちんと理解さえすれば、頭の良い方は確実に満点が取れるのです。ルールを知らずに解いているから、どれだけ勉強しても点が取れないというだけの話です。

よく論理力、または記憶や知識、あるいは情緒や想像力、いずれが大切かという議論がありますが、その議論そのものが僕にはナンセンスに思えます。

「話せばわかる」ためのルール

imagesそのルールに従わないで書かれている文章が、最近出てきてしまっているということも問題ですよね。例えば私は、自分が考えていることを、根拠となる情報とセットにして相手に伝えるのが、論説文であると考えています。

私が『産経新聞』の「正論」を書くときも、その点を重要視しているわけですが、今の時代は、相手の感情に火をつけて、ある種、アジっているような文章ほど喜ばれるようになっている。

でも、それは、お互いが共通の言語を持っているのに、自ら放棄しているようなものじゃないですか。

養老先生がいみじくも言っていますね、「話せばわかるはウソ、みんな違うって」

確かに、各個人がおのおのの考え方で、それぞれの前提で話してる限りにおいては、話してわかることはあり得ない。しかし、話のやり取りと違って、文章の便利なところは、ある種のルールに従って話を伝えれば、それがある程度「話せばわかる」に近い状況を生み出せる、ということだと思うんですよ。

和田

和田

出口

出口

imagesおっしゃるとおりですね。そのルールこそ「論理」と思うんです。論理とは、「言葉の一定の規則に従った使い方」であると僕は定義しています。 例えば、先ほどおっしゃった論説文や評論文等において、筆者が自分の考えを述べるときは、必ずルールにのっとっています。それが「筋道」です。筆者が他者に向かって文章を書くときは、必ず「筋道」を立てる以上、それを読む際も、筆者の立てた「筋道」を追ってくしかないのです。

つまり、筆者の言う「筋道」を正確につかまえていくこと、それこそが「論理」であり、読解そのものであるはずなのに、国語はまるで「センス・感覚」みたいな捉えられ方をしてきたのです。

そのようにきちんと「論理」を意識して文章を読み、それを論理的にまとめ、そして考え、さらに自分の考えを論理的に説明するようになると、世界中の人誰もが共通のルールのもとに話ができるようになる。すると、コミュニケーションもできるし、感情的な議論にもならないと思うのです。そういう訓練が、国語の中で全く今までなされてこなかったのではないかと思っています。

imagesそうですね。例えば藤原和博先生は「絶対量の差だ」みたいなことをよくおっしゃっていて、中学2年生の国語の時間が105時間しかないのに、テレビを見ている時間が1,400時間もあったら、「日本語がおかしくなるのは当たり前だ」みたいにおっしゃっています。

であれば逆に、その105時間の中で、いかにまともな「論理」を身につけさせるか、といいう教育をやるしかないのでしょうね。実際、「論理」を身につけていくと、テレビに出て偉そうにしている人たちが、感情論しか振り回していないことがわかるようになると思います。

例えば、原発事故のニュース解説にタレントが出てきて「怖い、もうちょっと情報を伝えてほしいですよ」って言ったりしますが、本当は伝わっている情報を自分が読んでないだけだったりするわけです。そういうおかしな状況は脱却できると思うんですよ。

和田

和田

第三部 論理と数学、そしてメディアリテラシー

数学が与える論理性とは

出口

出口

imagesやはり日本の教育の根本的考え方をしっかりさせなければなりません。基礎学力育成という視点で言うと、先ほど申しましたように、まずは言語の習得です。日本語のような自然言語に限らず、数学という人工言語も含めた徹底した言語の習得が第一ですね。 そのためには、なぜ言語を習得しなければならないかという理由を、子供たちにきちんと伝えて、意識づけすることが一番大切です。

人間がすべて言語によって物を考えること。そして、言語を媒介にすることによって、はじめて自分の感情を自分で認識できるということ。さらに、それらを相手に伝えることを可能にするのも言語であるということ。これらを体系的に伝えていく必要があると思っています。

なるほど。

和田

和田

出口

出口

そして繰り返しになりますが、「論理」を習得しないと、何を学ぶにせよ、ただ知識を詰め込むだけに終わってしまい、決してそれが身につくことはないのです。

imagesおっしゃる通りです。それに関連して申し上げますと、日本人の論理力のなさを補ってきたのが、私は数学ではないかと思っています。

例えば証明問題などが典型例ですが、順を追って、仮に帰納法で解こうが、演繹法で解こうが、ある種の論理を詰めていかないと数学は解けないようになっています。

また、ある範囲の中における答えが求められている設問、例えば「XがAより大きい場合」と、「XがAより小さい場合」だと答えが違ってくるような設問だと、場合に分けて考える必要があります。他にも、ある答えを証明するために、反証を一つ挙げるだけで証明になる、であるとか、必要条件と十分条件とを混同させないこととか……。

imagesそういう意味では、国語が苦手な私にとって、多少なりとも自分に論理性を与えてくれたのは、やはり数学だと思うのです。

ところが日本の場合、国語イコール心情読解で、数学は国語とおよそかけ離れた世界だと思われています。しかも、多くの私大には、数学が入試で問われない。結局、およそ論理的な考え方を学ばないまま、多くの大学生が卒業してしまっているのではないか、という印象さえ持ってしまうのです。

和田

和田

出口

出口

imagesおっしゃるとおりだと思います。数学の論理は本当に大切です。

例えば、小学・中学と、算数だ、数学だと言われながら、高校で私立文系志望になってしまえば、数学とは一生縁がなくなる。だったら何のために今まで数学を学んできたのか。膨大な時間とお金を損しただけじゃないか、と思う生徒が多くいます。

しかし、少なくとも小・中・高の算数・数学とは、僕は言語の習得だと考えています。

つまり、数学やコンピューター言語のことを、僕は「人工言語」と呼んでいるのですが、その使い方を学ぶのだと。

これらは絶対に必要な学習です。やはり人工言語を使いこなす頭の使い方も「論理」そのものですから。

数学と国語の論理性の違い

出口

出口

また実際、日本人が国語について間違った教育をずっとやってきたにもかかわらず、論理性の欠如をカバーできたのは、先生がおっしゃる通り、数学でかなり優秀だったからだと思いますね。

やはりそう思われますか。

和田

和田

出口

出口

はい。ただし、数学があれば国語はなくて良いという訳ではないと思うのです。まず、数学と国語の相違点を明確にしておかないと、議論が混同してきます。

どちらもまず言語の使い方なのですが、数学は「人工言語」です。これに対して、例えば日本語、これは「自然言語」であり、根本的に違うのです。「自然言語」というのは、他者が前提の世界です。一方「人工言語」、たとえば数学は他者のいない世界なんですよ。

そうですね。

和田

和田

出口

出口

自然言語は、自己完結している世界から、お互いに分かりあえないはずの他者に対して伝えたい、だから筋道を立てて表現しようという、ある意味で他者への思いやりの言語だともいえると思います。

imagesなるほど、国語における論理性と、数学における論理性は多少違うのでしょう。今お話を伺っていて思い浮かんだのは、経済学のことです。日本人って真面目すぎるから、「経済学の教科書に書いてあることは、何でも正しい」と思っている方が多いですよね。 しかし、ほとんどすべての経済学は、二大条件を持っているのです。そして、その条件とは、「人々は合理的な判断をする」、それから「人々は完全な情報を持っている」という前提です。しかし、これらは絶対に存在し得ない条件なのです。

確かに人々が合理的な判断をし、完全な情報を持っていれば、需要と供給の2つの直線がぶつかったところの値段でしか物を買わないでしょう。しかし、本当はたくさん足りていても、パニック心理になると、物が無くなったり、異常に価格が高騰したりする。それはこの間の震災でも現実化しましたよね。

要するに国語的な論理力とは、完全な情報、あるいは合理的判断を介さない、ある種のファジイさがあるのではないのでしょうか。人間がやるところの答えは、数学が出す絶対的な答えとは必ずズレが生じますから。

imagesところが、もしかするとそこが、従来型の国語教員の「論理なんて要らない。国語は鑑賞するものだ」という考え方の根拠になってきたのかもしれません。

またそれは、今の日本で多く見られる経済学者たちの、「数字通り、理論通りに絶対いくはずだ」っていう間違った考え方と、どこかで通底しているように思えるのです。

つまり、例えば経済学者や心理学者というのは、経済や心理事象が、本来客観など存在せず、他者が存在することが前提であるにもかかわらず、あたかも他者がいない、人工言語の「論理」と同じことが起こると信じているのではないでしょうか。

そしておそらく、「論理的な国語は要らない」という、従来の国語教員の考え方の指す「論理」というのは、その人工言語的な「論理」を指しているような気がするんですよ。

和田

和田

出口

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今のたとえはすごくわかりやすくて、刺激的でした。

論理の欠如がもたらす社会の歪み

出口

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今の日本の教育問題に話を戻しますと、ともに大切にすべきはずであったはずなのに、算数・数学だけは徹底してやった。これに対し、国語における論理力教育は皆無だった。その非常にアンバランスなところに大きな問題があると言えるのかもしれませんね。

おっしゃるとおりですね。

和田

和田

出口

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そこを何とかしないと、日本の教育は、もうダメになってしまうと思うのです。

images僕が行っていた学校が、灘中という特殊な学校だったということもあるのかもしれませんが、私立の中高一貫校だと、数学でも多少幾何的なこと――ユークリッドの幾何学みたいなことを教えるわけですが、そうでない学校は本当に数式をいじるだけの教育に陥ってしまっているんです。特にセンター試験の解答はマークシート形式ですから、必然的に、高校教育でも、答えに至る論理的な過程が飛ばされてしまいがちになります。

つまり、国語がいまだに論理的なことをきちんと教えていない一方で、今まで日本人を支えてきた、数学における論理的思考の部分もかなり飛ばされ始めている……。

和田

和田

出口

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憂うべき事態ですね。

はい。結果、例えば、テレビでおよそ論理的とは思えない発言をしていて、感情をうまく煽る当意即妙な答えをする人間が政治家になったりしていますよね。

あるいは、昔であれば、派閥の領袖として何らかの政策を持っている人が総理大臣になっていくシステムだったのが、今では一番総理大臣に近いポストは官房長官だと言われています。なぜ官房長官になると有利なのかといったら、頻繁にテレビに露出することができるからだとか。

映画なら映画で、ベスト10のうち5作ぐらいまでがテレビドラマの続編であるとか、あるいは音楽のベスト10が全部特定のアイドルグループだとか……、これがおかしい状態であることにさえ、気づいていないのです。そこまで簡単にテレビに洗脳されてしまうというのは、やはり自分の頭で考えていないことの表われですから。

和田

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メディア・リテラシーと論理

imagesイギリス人はまともな新聞でさえ15%の人しか信じていないのに、日本人は新聞に書いてあることであるならば、全部本当だろうと思っている節があります。

しかも、日本のマスコミは記者クラブのような形で情報を寡占化するから、すべての新聞がみな同じことを書きます。そして、同じことが書いてあることと、客観とはまた別問題なのに、同じことが書いてあると正しいことのように思えてしまうわけです。

民主主義を成立させるためには、正しい情報が必須条件です。実はインターネットを使えば、いくらでも情報が取れ、テレビが言わない情報も得られるようになってきているのに、メディア・リテラシーのない国民性という視点から見ると、多分エジプトやリビアで起こったようなことは、この国では起こらないな、という感じがしてしまうんですね。

和田

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出口

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imagesそういう意味でも、本当に日本人の思考力、判断力をもう一回見直して、徹底して鍛えていかなければダメな時期だと思います。僕の仕事としては、とにかく論理力の重要性を一人でも多くの日本人に伝え、身につけてもらいたい。そうでないと、日本はもう三流国になり下がっていくのではないでしょうか。

例えば製造業であれ、ITであれ、「こういうものを作れば売れるだろう」という考え方、これもある種の論理性だと思うんです。その分野で日本人が世界より優れていた部分が、いま怪しくなりつつあるということを考えたとき、やはりおっしゃるとおり、論理性の欠如により、このままだと三流国家になるでしょう。

もっと悲しいのは、これだけテレビの影響力が強くなると、文化国家ですらなくなってしまうんですよ。韓国やフランスなどと比べても、映画産業そのものが衰退していますよね。あるいは音楽であれ、独自のものが出てこなくて、最大公約数的なものばかり――つまり自分の思考力で物を考えなければ、多様性というのは出てこないのです。

すると、文化もダメ、それから、外国に勝っていた製造業的なものもダメ、という話になってしまう。

和田

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出口

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そうですね。

imagesテレビだって、テレビそのものが悪いのではなく、テレビを批判的に見ることができないことが悪いわけです。だけど、家庭内で批判的に見ることも少ないでしょうから、せめて学校で正しいメディアの捉え方を教えてほしいですね。

今の地震報道のように、感情的になり、客観性も損なわれ、みんなが同じようなことを言っている時こそ、学校教育復権のチャンスがあるのではないでしょうか。

学校の先生が、「公式発表はこうなっています。それに対しAという人の説はこうなっていて、Bさんの説はこうなっているでしょう」という風に、1局のテレビのスタンスだけではなく、多面的な物の見方に関して説明しても良いですよね。

imagesまた、一緒にテレビを見ながら「この物証とこの意見は論理的に整合性があるが、この意見は整合性はない」などという説明をして、メディア・リテラシーについて教えることができれば、「あ、テレビよりも先生のほうが信用できる」と思わせることができる。そういったチャンスって、たくさんあると思うんですよ。

それも含めて、やはりまともな国になるために、論理的思考力を持つための教育は必要だと思いますね。

和田

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出口

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imagesまさに、論理性の欠如が国の根幹を危うくしていると思います。和田先生同様、教育界における実際の活動を通して、国の根幹を立て直すことが急務だと痛感しています。本日はお忙しい中、ありがとうございました。

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